くらむ本

常にネタ切れ。たまに書く。

【雑記】コミュニケーションすることを諦めてはならない

近頃では「ポリティカル・コレクトネス」と言う言葉をよく耳にするようになりました。
そういった言葉を口々にする人達に思うのは「コミュニケーションを正しく行っていないな」と感じるのです。でも、だからと言ってそういった人達を迫害していいと言う事にはならない。それを行えば、彼らと同じことをしてしまうのです。
我々に残された手段はただ一つ。コミュニケーションすることを諦めてはならないのだ。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
※※※wikipediaより引用※※※


ポリティカル・コレクトネスを求めた先にあるものは?
ポリティカル・コレクトネス」の問題を無限後退させていくと、最終的にたどり着くものって言うのは、「ユートピア」か「ディストピア」なのか?と言うところにたどり着くのではないかなぁと私は考えています。
そして、その問題に対しては個人の信仰している価値観が違うから、どうしても言い争いって言うのは起きてしまう問題でもあると思うんですよね。
だから、現にあーだこーだと言い争いが起きているわけで。


◆解決へのヒント
この問題に対する解決のヒントとして、一つ挙げられる言葉としては、かつて"ウィトゲンシュタイン"が残した以下の言葉になると考えています。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

彼の言葉を信じ2年間近く追い求めてきましたが、この言葉を色んな方向から解釈していくと、これも誤りなのかもしれない。と私は最近になって思うようになりました。
”論考”の中で言えば、これは間違いなく正しい答えだと私は考えています。生産性に着目すれば、これほどまでの正論はおそらくないと考えています。ですが、人間として捉えれば、誤りでもあるかもしれない。

何が言いたいのかと言うと「人間臭さが無いアンサー」だよなと私は今、たどり着きました。


コミュニケーションすることを諦めたらいけないんだ
どんな人であれ、コミュニケーションすること、会話をすること、考えること、それを諦めてはいけないと思うんです。そこに希望があって夢があって、ヒカリがある。
もちろん、中には割り切らないといけないこともあるでしょうけれど、それ以上に対話することって大切だよねって思うのですよ。

「左翼」「右翼」、「勝ち組」「負け組」、「情強」「情弱」、そのように人をラベリングするのは簡単だけれど、そこで立ち止まってしまっては、何も変わらないじゃないか。誰も幸せになれない。

だから対話をしよう。そこから学べることって沢山あると思うんですよね。
”それ”は目に見えるカタチにはつながらないことなのだろうけれど、何が正しいのか?と言うことを色目なくフラットに考えていくことには、きっと価値があると思うのです。

私は、凡人でウィトゲンシュタインの言葉の鱗片すらきっと捉えられていない人間でしょう。
そんな正義も大義もないバカな人間として、私は彼に反逆の狼煙をあげよう。人間ってもっと救いと希望に満ち溢れた生き物だと彼に挑戦しよう。





よければ以下記事もどうぞ
●”理解出来る事”と”理解出来ない事”
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar703069
●【雑記】私が考える「生産性のある会話」と「責任」について
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar564473
●【雑記】友人関係とかで宗教や政治の話はタブー?
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar789974
●【雑記】表現者にとって優しくて厳しい時代
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar603566
●【雑記】利便性や情報が国民にもたらしたモノとは何か
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar669628


そんなかんじで。
おしまい。