くらむ本

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【雑記】資本主義化した「子育て」

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以前私が書いたエントリ ”【雑記】僕たちが「死にたい」と呟く理由”(https://kuramu1015.hatenablog.com/entry/ar1929300)で、世の中って何だか生きづらくなったよね。その契機としてあるのは、資本主義と社会契約で、人の思想がホモ・エコノミクス的な考え方が中心となってしまった。というのをざっくりと私が思った言葉でまとめました。

婚活アプリを右手に握りしめている独身の私が言うのも何なんですが、子育てについて、同じ切り口となってしまいますが、色々と考えたことをここにまとめておきます。

 

◆社会的な責任

子供を産む、子育てをする。と言うことについて、現代の親世代たちは、少なくとも「子供は幸せにしなければならない」という、社会的責任を背負っている。


では、その社会的責任の背景にあるものが何なのかと言うと、ホモ・エコノミクス的な価値観、つまり資本主義と社会契約からきていると私は考えている。

その背景にあるものを、考えたことをここにまとめておく。

 

◆地域共同体の死、親への負担増

私が生まれていない時代、昭和や、平成以前の世代では、公園などに限らず街中が子供たちの遊び場であり、地域に住む知らない人の私有地すらも遊び場としたり、子供たちのたまり場と呼べるような場所で、触れ合った兄貴分とも呼べるような悪ガキから、色々なことを学べると言った、子供たちのネットワークが自然と構築され地域共同体と言うものがうまく機能していた。


だが、平成以降の子育て文化では、人々の生活が高度に発展し、資本主義や社会契約の思想が人々の内面に入り込み通念化した今、そのような地域共同体は、様々なリスクや責任の名のもとに排除され、子供たちが気軽に足を踏み入れられる場所というのが、昔より少なくなったのだ。


また、核家族化の促進により、地域の人に限らず、子供たちが親の親族に触れられる、親世代の人たちが親族に頼れる。と言うことは難しいケースとなり、親への負担と言うものが、非常に増えてきているのではないだろうか。

 

◆資本主義に飲まれる子育て

資本主義化が進んだというのは、子育てにおいても例外ではなく、様々なサービスが充実しており、現代においては金銭さえ支払えば、子育てのアウトソース化も行えるようになった。例えば、子どもの教育として、塾に通わせる。とかだ。


そのようにして、親世代による子供のデザイン化は昔に比べると、非常に行いやすいものとなったが、そこには金銭的な負担が要求される。


では、その金銭的な負担、制約がつきまとうようになった現代で、地域共同体が死んだと述べた現代で、その金銭的な負担が背負えない親が、子供に対して提供できるものが、どれほどあるのだろうか?と言うと、それは、きっと、そう多くない。


「親は、子どもを幸せにしなければならない。」

「子どもをいい学校へ、いい就職先へ。」

「そのためには、習い事を習わせなければならない。」
その言葉はまるで呪いかのように親世代に浴びせられ、金銭的にも時間的にも、様々な負担が強いられる。


そして、そのような負担を支払ったからと行って、必ずしも、結果が結びついてくる再現性のあるものではない。

つまり、子育てと言うのはホモ・エコノミクス的な価値観から考えると、リスク以外何物でもないのだ。そのよういな物差しがマジョリティとなっている今、一体、どれほどの人たちが、子育てをやろうと思いきれるのだろうか。

 

◆生殖適齢期と言うタイムリミット

前項で金銭的な負担が大きいというのを簡単に述べたが、では、その金銭的な負担を親世代の人たちが背負えるようになるためにはどれほどの期間が必要なのだろうか。というと、それは生殖適齢期を軽く超えてしまうであろう。


生殖適齢期を逃してしまうと、女性の卵子も男性の精子も機能が衰え、簡単には妊娠することができなくなっていく。また、高齢出産ともなれば、子どもが先天的な障害を抱える可能性や、母体への負担が大きく、流産などのリスクも併せて大きくなっていく。

 

親としての責務として、金銭的な負担を解消しようと思うと、現代では、違ったリスクが表面化していくのだ。そのどちらも満たそうと思った時、どの程度の期間、猶予が親世代たちに与えられているのか、と考えるとその期間はごく僅かに限られるかそれとも、何らかのリスクが要求される状況になるかの二択ではなかろうか。

 

つまり、リスクなく子育てを行いたいと思い立つのであれば、社会人になって間もない頃から、自身の人生のキャリアプランに限らず、出産や結婚、子供といったものに関しても、設計していくことが要求される。果たして、どれほどの人がそこまで考えられ、そして、自身の設計どおりに歩むことができるのであろうか。

 

◆ゆるやかな反出生主義化

ここまで上げたことをまとめると、ホモ・エコノミクス的な思想というものが、子育てと言うテーマにおいても、親世代たちの心の内面に入り込んでいる。と言うことを述べた。


そして、その内面化したことによって、何が起きるのか。と言うと親世代は社会的な責任を前にして、そのような制約を乗り越えられる、リスクを背負えなければ、子育てをしては行けないと言う気持ちが宿っているのではないか。


また、現代社会においては医療の発達によって、子どもたちが簡単には死ななくなり、子どもたち一人ひとりにおいても、一人の人格者として認める人権意識も高まった。
貧乏子沢山と言うのは、現代においては誤りであり、子育てと言うものは金銭的にも時間的にも余裕がある人にしか手が伸ばせないものとなっている。


「親は、子どもを幸せにしなければならない。」

と言う通念が親にとっては支配的な価値観となり襲いかかってくる。そして、人権意識が高まった今、それを乗り越えられなければ、一種の虐待として受け止められるような、そんな社会になっているような気がしてならない。


ゆるやかではあるが、それはもはや一種の反出生主義とそう違ってはいないと、私は考える。

 

補足ですが、その反出生主義の先にあるのは尊厳死とか優生学の問題が再燃するような気がしてきます。

ここまでホモ・エコノミクスな価値観が浸透した今、「労働力にならず医療費の負担となる老人や障害者を排除せよ!」のかけ声が上がっても何らおかしくはないと私は感じています。

そういった観点に関するアンサーは「人道的自由主義」や、サンデル教授が書いている「運も実力のうち」などが挙げられるのかなと考えている。このあたりは不勉強なので今後の課題ですね。


◆無償の愛(贈与)というアンサー

話を戻しましてこれまで、ホモ・エコノミクス的な価値観においては、子育てというものは、ものすごくリスクである。と言うことを述べてきた。


それは、何故かと言うと、子どもというものは、社会的な通念が、インストールされておらず、極めて動物的な未熟な状態で落ちるためです。それはつまり、子どもの前では、親世代の人たちがこれまで培ってきたホモ・エコノミクス的な思想、ギブ&テイクの関係性が構築できないと言うことです。


子育てというのは、そのような関係性の外側にあるものであり、自己の生存に向けて、ご飯を食べると行った自発的な行動ができない子どもを前にした時、親世代の人たちは、無償の愛、贈与と言う文脈にたどり着く。

 

それは、親世代の人たちが今までで培ってきた価値観から、脱却できる唯一の機会であり、それはきっと、何事にも代え難い、かけがえのないものではないでしょうか。
なぜならば、ギブ&テイクの関係性を超えた先にあるのは、「生きる意味」と言った、金銭的な価値に還元できないものを、贈与を行うことで、授かるからです。

 

◆最後に

最近読んだ「世界は贈与でできている」と言う本に非常に感銘を受けまして、私が考えてきた生きづらさ、そして今回テーマとした子育てに対するアンサーは、間違いなく、これなんじゃないかと考えています。

言葉足らずではありますが、自分なりに本を読んで思ったこと、今回挙げたテーマについて思っていることを、一通した言葉になんとかまとめ上げてみました。

触りだけしかふれていないため、魅力とまでは伝えきれていませんが、もし興味がでた方は本を取ってみて頂ければ嬉しいです。

 

 

そんなかんじで。おしまい。