くらむ本

常にネタ切れ。たまに書く。

【雑記】死を観測して

昨年度、何の因果か分かりませんが、私は数多くの友人を事故や病気等で亡くしました。
この歳にもなると、結婚の報告を頻繁に耳にするような、めでたい年頃であるにも関わらず、まさかそんな一年になるとは誰が予想できたことでしょうか。

そうして、そう言った友人達の死を目の当たりにし、観測した時。
私は不思議と『悲しい』とか『寂しい』『虚しい』と言うような感情を
残念なことに、清々しいほどにも、全く抱きませんでした。
まぁこんなもんだよね。とその事実を即座に肯定することができました。
それは私は頭が半分壊れている事も原因の一つでしょう。

そうして私は気づきました。
友人の死に対して、隣には泣いて悲しんでいる人がいるにも関わらず、
私みたいに、こんなにも冷静になれる人間もいるものなのだ、と。

つまり、私が本件を通して、なにが言いたいかと言うと
人の気持ちを理解することなど、本当の意味では、だれも出来ないと言うことです。
その悲しんでいると言う感情は理解できても、本当にその人がどれだけ悲しんでいるのか、
それは、その人本人にしか決して分かり得ない事なのです。

言ってしまえば当たり前の事なんですよね。
私は私と言う観測点でしか物事を測ることしか出来ず、
友人は友人の観測点でしか物事を測ることができない。
そう言った価値観、何に重きをおくか、それぞれがそれぞれの天秤を心に持っている。
それが人間なんだと。

世界は自分を中心に回っている。
まさしくその通りだ。
その他の価値観など、到底理解することなど不可能だからだ。
理解出来ぬなら、もう少しだけ、人間はワガママで自己中になるべきである。
せめて自己の資本となる芯、ここだけは譲れないと言う頑固な部分、己が己であると言う誇りを持っておくべきだ。
どうも最近の人は、そう言った芯のない揺らぎのある人が数多く見受けられるような気がします。気のせいでしょうか。


おそらく、そうした価値観の相違があるからこそ、言葉が生まれ、
人は会話による価値観の共有、コミュニケーションを試みるのだろう。
だからこそ、人間は面白いと思う。


おしまい。