命の価値?命の大きい?小さい?
そんなもんあるわけねーだろバーカwwww
◆なぜならば、それは”主観”であるからだ
「自分が凄く大切にしていたペットの命」
「地球の裏側の何処かで死んでしまった人間」
そのどちらの命が大きいか?
と問われた時、大体の人は前者を選ぶと思うんです。
でも、それが、後者に取り上げた”何処かの人間”の友人だった場合、そんな見ず知らずの人(自分)のペットとどっちが大切か?と問われたら、そりゃ後者の人の方が大切だよねって思う。
だから、命の”価値”と言うのは、凄く主観的なもので、”重み付け”の話なんですよね。
◆だからこそ、本当の意味での”価値”はない
結局のところ、そう言った”重み付け”になってしまう。
つまり、そこに”一つの命である”と言う大前提にすべき公平性だなんて、その時点でありませんし、だからこそ、”命の価値”と呼べるようなものは幻想で、そんなもの、初めっからないのです。
アメコミとかのヒーローの文脈や、サンデルさんの「正義の話をしよう」と言う作品のほとんどは、この問題を凄く面白く紐解いていると思います。
分かりやすく一言でいうなら
「自分の好きな人を取るのか?それとも大勢の命を取るのか?」
みたいなベタベタな奴ですね。
これって究極の問題で、そこに本当の意味で”正しい”と呼べる答えはないと思うんです。
◆それがあるとすれば、それはただの”同情”だ
それでも尚”価値がある”とそう言うことは、ただの”同情”なんじゃないか?と私は思うんですよね。
「友人の友人が死んで、友人が悲しんでいる。
でも、その友人の友人は、私にとって他人である。」
と言うような状況で合った場合、友人が持っている悲しみを”本当の意味で理解”することと言うのは到底できることではない。
なぜならば、その悲しみは友人の持つ”主観”からくるもので、私の”主観”からは観測できるものではないからだ。
私が何が言いたいのかと言うと、友人が悲しんでいると言う状況に対して理解することはできるが、その悲しみの重み付けに対して理解することはできない。と言うことです。
つまり、それって同情以外なにものでもなくて、気休めなんですよ。
友人はその悲しみから立ち上がる時に支えてあげることはできても、本当に必要なものは、本人の意思が一番大切であると言うことには、変わりがないのです。
同情するなら金をくれ。
なんて、分かりやすい。
素晴らしい言葉だと、私は痛感しています。
◆だからこそ、命の価値などない。
改めていいましょう。だからこそ、命の価値だなんて、そんなたいそれたものは幻想です。
仮想通貨や株式と何も変わらない。
そんなろくでもねーもの、今すぐ窓から投げ捨てろ。
(続く)