くらむ本

常にネタ切れ。たまに書く。

【私生観】③僕は”アイ”を証明しようと思う



過去2つのブログを土台に、そして私が至ったのは”アイ”でした。
それこそが、全ての想いに祝福を与えるものだと、私はアンサーを得ました。


◆僕は”I”を証明しよう
過去2回書いてきたブログで示した文脈は、自分が自分であると言う事。
内発性。”内からウチに対するもの”を主体としたお話でした。

過去2つのブログを一言でまとめるなら、
「あなたはあなたのままでいい」
と言うことを伝えたいんですよね。

ですが、それは自分の"主観"のみの話で、閉じてしまっている"求道"の話。
独りよがりで、だから僕は悪くない。世界が悪いんだ!と、ただ恨んで妬んで、それで全てが終わってしまう。
あまりにも言葉として、説得力として弱い。それでは、当人も誰も、救われない。

そこで私は得た。人は、人とのつながりで、社会によって生きているものでもあると言う文脈。相対的な存在であると言う事。
外部からの干渉を得られたら、、、そのことによって、"求道"は"覇道"に至り、強い言葉となる。
改めて問おう。"求道"を"覇道"へ至らせるためにはどうしたらいいのか?

その答えは"愛"でした。


◆僕は”愛”を証明しよう
”主観”の問題がある以上、どれほど悩んで言葉を交わして、一緒に過ごしても、私はあなたのことは1%も理解できないでしょう。100%そうだと言い切れます。

ただ「私が、あなたが、あなたのままでいてくれた」
その在るがままを祝福し肯定し”愛”を持ってして受け入れよう。

そのことによって、あなたの"求道"を”覇道”へ導こう。
”愛”と言う文脈があれば、そこに生死は問われない。
何故ならば、そこに"価値"があった、意味はあったと言う証になるからだ。


◆僕は”私生観”を証明しよう
これは、まさしく私の独りよがりな、、、思想。
いや、もはや思想ですら、ない。"主観"と言うバイアスの掛かった、ただの戯言なのだろうと、そう思う。死生観とは、とても呼べるようなものではないでしょう。

もっと幼稚で稚拙で、それは、、、、
まさしく”私生観”と呼べるんじゃないか。そういうもののお話です。







(続く)