くらむ本

常にネタ切れ。たまに書く。

【雑記】”殺人者”と”私達”の違いは何処にあるのだろう



戦後、最大の死者を出した事件「相模原障害者施設殺傷事」その事件から、1年と少しの歳月がたとうとしています。

私は、この事件に携わる書籍は全て購入し、犯行を行った植松被告の手記や手紙を出来る限り目を通し、そして実際の事件があった現場をこの目で納めて、ただひたすらにこの事件を追い続けていました。

そして、気が付きました。
犯罪を起こした”彼ら”と、”私達”の違いって、、、、無いんじゃないかと。


◆彼らは本当に異常者と切り離すべきなのか?
やっぱり、彼ら(殺人者)が行った事自体は、許されるべきことではないです。
ですが、個人の性質もありますが、彼らが異常だったからそうなったんだよ。と言う一言で、特異な事象だから仕方がないと言う線引をしていいものなのか?
なぜ、彼らがそのような行為に及んだのか?と、その過程や環境に焦点を当てていかないと、第二、第三の彼ら(殺人者)が生まれていく連鎖は、続いていってしまのではないかとそう思うのです。

現に「相模原障害者施設殺傷事」を起こした植松被告は、精神鑑定では”責任能力あり”と出ています。
精神鑑定が全てとは言いませんが、ある一定の判断の基準として考えると言う点では非常に有効で、じゃあ、彼一人の問題ではなく、もっと、背景にも目を向ける必要があったのではないか。と思うのです。


◆生き方の多様化が犯罪への動機の多様化にもつながっている
今の時代は、生き方が多様化した事もあり、そういった行為に至った要因、動機というものも複雑化し、簡単には見えなくなってきている。それは、近年の凶悪な事件を起こした彼らの言葉を耳にしていて、感じている人も多いでしょう。

最終的に言ってしまえば、そうなったのは「個人の性質だよね」って言う一言につきてしまうでしょう。でも、それでは何も変わらない。それで、終わってしまう。

残虐な犯罪行為を行う人はいつの時代であっても、一定の人は出て来るでしょう。
その行為をなくすことは非常に難しい。だが、それでも一つ一つの事件から、私達に何ができたんだろうね。と学び、歩み寄る事が必要なのではないでしょうか。


◆なぜならば”彼ら”は”私達”だからだ
なぜ歩み寄る必要があるのか?といえば、それだけ生き方が多様化されていると言うことは、”
彼ら”と”私達”の境界線が曖昧に、わかりにくいものになっているからだ。
一歩踏み外した時、”彼ら”と同じ行為を行ってしまうのは、”私達”になるのかもしれない。

”私達”を理解するために、”彼ら”に歩み寄る。その必要があるのではないか。




よければ以下エントリもどうぞ

●【雑記】相模原事件から考えたこと
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar1102878






そんなかんじで。
おしまい。