10月31日、とてつもない事件が発覚しました。
「座間9遺体事件」
私は、この事件に確かな”愛”を感じました。
◆座間に見た"愛"
なぜ私が、この事件に"愛"を感じるのかと言うと、これは個人が持つミクロな問題に焦点を当てていて、そして、その願いを現実のものにしよう!と単純な話じゃないか!と実行したからなんです。
死にたい?それならたやすい願いだ!俺がその願いを叶えてやろう!ではさらばだ……。
そして、お金を奪った!みたいな話もありますが、それは犯行を実行するために必要だっただけで、、、ただ、彼は純粋なだけだったのじゃないかと思うのです。
容疑者は自殺願望のある人を誘い出していたが、「本当に死にたいと言う人はいなかった」と供述しているという。
――各・ニュース記事より
◆彼は本当に”異常”なのか?
被告者はおかしい!!!異常だ!!!と騒ぎ立てる人が数多くいますが、本当にそうだったのか?と私は腑に落ちない点があります。
今の世の中って非常に生きづらい。じゃあ、そういった社会のしがらみから俺が解き放ってあげよう!と言う慈善活動のようにしか私は受け取れなかったんですよね。
女性ばかり狙っていたり、性的な意味もあったのでしょうけれど、単純に男は力が強くて、暴れたら厄介だし、女性の方が体重が軽い。つまり、物質的な事後処理量は少なくて済むと言う事を考えると、それも計算だったのではないか?と思っています。
ここまでの短い期間に多数の人数を殺害出来たというのは、そこまで人に固執しないとできないことで、それって”愛”と言う言葉以外表現できないのではないか?と私は思うのです。
本当に彼は”異常”だったのか?全て”計算”だったのではないか?
●【雑記】相模原事件から考えたこと
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar1102878
◆”異常”と切り捨てる”環境”の方がおかしいのではないか?
昨年起きた相模原事件もそうですが、今回の座間事件もしかり「異常だった」と言う一言で切り捨てていい問題ではないと思うんですよね。
やっぱり、これらの事件が起きた問題の根幹にあるのは、型にハマることを要求される社会と、そしてそのことに疑問を持たない人たちが大多数であると言う現状が、確かな”歪み”へとつながって、そして”それ”が浮き彫りになってきているだけなのじゃないか?と考えてしまいます。
ここまで人に固執できると言うことは、そこに意思があって、よっぽど社会と言う場で仮面をかぶる人たちよりも、人間らしい。そのメッセージを社会に馴染めていないから”異常”だと言う一言で切り捨てていい問題ではないと私は思うのです。
それでは、過去に我々が繰り返してきた人種差別と、そう違わない。
●【雑記】”殺人者”と”私達”の違いは何処にあるのだろう
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar1348712
◆問われる、"SNSの規制"問題
本事件をとおして、SNSの規制だ!!よくないよくない!!!と声を荒らげる人もいますが、
SNSがあったからこそ、犯人の早期発見につながっていたと言う背景もありますし、何でもかんでも規制を掛けることって良くないと私は考えています。
SNSの匿名の場だからこそ言えることも確かに存在していて、その事によって希死念慮が和らいで、じゃあ、もう少し生きてみようかなと思いとどまる人も数多くいると思うんですね。
もちろん、中には本気で”死にたい”と思っていたのではなく、いろいろな問題が積み重なって、その逃避の為に”死にたい”と言う言葉が出てきた人だっていると思うのです。
そうやって言葉にできる場があると言う事が、すごく大切だと思うんですよ。
その場を奪うことは、より大きな歪みを生み出してしまうのではないかと、、、そのことの方がよっぽど恐ろしいと私は考えています。
●【雑記】死にたがりの道化達へ
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar1244464
◆問われる、"報道機関"の在り方
また、今回の事件で被害にあった方全員が実名で報道されると言う事もありました。
昨年発生した相模原殺傷事件では、そのような報道行為は行われませんでした。(障害者云々の文脈もあるでしょうが、、、)
私は、露骨にここまで舵の切り方を変えている報道機関の在り方と言う物が、全くと行って筋が通っておらず、不信感しか覚えなかったんですよね。
98年に起きたドクター・キリコ事件の時から、この体質と言うのは、何も変わっていないんじゃないか?何も学んでいないんじゃないか?と、そう疑ってしまうのです。
過去にも述べていますが、報道機関としての誇りや、”大きな場で発言をすると言うことは、そこに責任が問われる”と言う事をしっかりと認識していってほしいなぁと思っています。
●【雑記】SNSの投稿を引用するメディアに対して思う事
http://ch.nicovideo.jp/kuramubon/blomaga/ar962536
◆我々は考えて、考えて、、、十字架を背負わなければならない
もう一度、もう一度、もう一度、考えることをしないといけない。
昨年、相模原で起きた衝撃的な事件がありました。
そして、今年、座間でこのような衝撃的な事件が起きた。
一見、関係がないように見えて、これらは、たしかにつながっているのではないか?
決して、”異常”だったからの一言で切り捨てていいような”環境”や”状態”ではないと言うことを、世間に訴えかけてくれている、”歪み”の現れなんじゃないかと私は思うのです。
我々に、”今”、何ができるのか?一体、本当に”正しい事”とは何なのか?
その”答えのない答え”を求めて、我々は考え続けないといけないのではないでしょうか。
座間事件で、白石犯人の取った行動がわからない。みたいな人多いけど、私には分かるなと感じています。
— くらむ (@kuramu1015) 2017年11月7日
死にたいなら死ねばいいし、いきたいなら生きればいい。
そして死ねないなら、殺してあげよう、そのことによって生きた証を君にあげよう。
って文脈だと思うんですよね。
※ 画像は "カラヴァッジョ" が描いた "ナルキッソス" より ※
そんなかんじで。
おしまい。