くらむ本

常にネタ切れ。たまに書く。

【雑記/死生観】自殺って悪い事なの?

これは、私のエゴであり決めつけで、
ワガママな一人よがりの思想である。


標題に入る前に、一つ私は伝えたい事がある。
いや、「伝えたい事」と言うには若干齟齬が生じるか、
私の考える「生きる事」の定義である。
エゴであるのは承知の上だが、
これから話すことはこの定義に基づいて話をさせてもらいたい。

私が提示する「生きる事」の定義とは、
みな、社会に出たり結婚したり、友達と遊んだりしているが、
それはつまり「生きる事」そのものに意味を求めているのではなく、
どこか「生きている場所」に意味を求めているだけではないか。
つまり上記の定義の上では、あまり「生きている事」そのものに意味は無いものだと私は考えている。

そう考えると、「生きる」「死ぬ」と言う選択肢を前にした時、
私はどうも「生きる」と言う選択がそれほど大切なように思えないのだ。

それは、なぜかと言うと上記の定義に従うのであれば、
「生きる場所」を求められない人間がいるとするならば、
それは本当に生きていると実感出来ないんじゃないかと思う。
そうなってしまった人間がどう呼ばれるか知っているだろうか。
きっと、こう呼ばれるのだ「社会適応のできない適応障害者」と。
そうして社会の弾きモノにされてしまった人間に与えられるような
「生きている場所」と呼べるようなモノは本当に「生きている場所」と呼べるのだろうか?

否、私はそうは思えない。
それは「生きている場所」ではなく、
「生かされている場所」なんじゃないかと。

そう一度感じてしまうと、なかなか難しいもので、
「生きている事」と言うことが酷く辛く感じてしまうのだ。
そうなると、自ら死と言う選択肢を選んでしまう人が
多数出てきても、何も不思議ではないと私は思う。
これは死にたい!と思った当人だけの問題ではなく、
社会的・構造的悪循環がもたらした結果の一つでもないだろうか。

それは自分から「生きる場所」を求めようと努力しないからだと、
そう反論されてしまうかもしれない。
だが、一度「生きる場所」を失い「生きている事」に疑問を持った人間が
果たして再び「生きる場所」を求めて、頑張って生きていくぞ!
と言うような気持ちになれるだろうか。
とてもじゃないが、そうは私は思えない。
一度堕ちた人間は、なかなか立ち上がることはできないものだ。

本当に自殺は悪なのか?
キリスト教的に言えば「自殺は悪である」と断言する人は多いだろう。
また、キリスト教に限らず、自殺は良くないと言う人が多数であろう。
だが、それらの意見を述べる人は少なからずとも、上記に述べた「生きている場所」に生きていることを見いだせている人なのではないだろうか。

自分が16や17だった頃を覚えているだろうか。
あの頃は、手を伸ばせば何だって届くんだって、そう思っていた。
でも四捨五入をすれば30と言う歳にもなると、社会と言うもの、
自分自身の限界と言うものがが少しばかし理解できてくる。
手を伸ばしたら何でも届くんだと信じていたが、それは幻想で誤りであり、
この両手を伸ばせる範囲のものでしか届かないのだ。
そして、必死に伸ばして手に入れたものですら、水のように手をすり抜けていく
その無力感に私は耐え切れないのだ。

つまり、総まとめとして、何が言いたいかと言うと、
私は物凄く今死にたくて、小さいエゴの塊で出来た理論とも呼べない理論を振りかざし、
「自殺すること」を長ったらしく「自殺は悪いことじゃない!」と正当化したにも関わらず、
自殺する勇気もないから、だらだらと「生きる事」も「死ぬ事」も選べず
中途半端なまま社会に関わり「生きる事」をとりあえず選択します。と言う事だ。


最後に一つ、こんな映画があることを紹介したい。
参照URL:http://www.saving10000.com/?lang=ja
この作品は、無料でインターネット上で公開されている。
約1時間程度の作品である。もし興味が出た方は是非閲覧してほしい。
映画の内容については、私は映画を語れるほど数を見てないので、
「ふむ、なるほどよく分からん!」と言う感じでした。
以下、本作の冒頭より
自殺との戦いにおいて、「敵」はいったい誰なのか。
映画『Saving 10,000 ? 自殺者1万人を救う戦い』は、
日本の高い自殺率の真の原因究明に挑む一人のアイルラン-ド人の物語である。



これは、私のエゴであり決めつけで、
ワガママな一人よがりの思想である。





おしまい。